「ツールは配ったのに、使われていない」。生成AIの社内展開で、いちばん多い詰まり方です。アカウントを発行し、社内に告知を出し、使い方の資料を置く。そこまでやっても、実務の中では開かれないままになります。スイスの金融機関Pictetの取り組みは、Anthropicが公開した導入事例として内容が出ており、配る前に何を置いたかが具体的に書かれている点で読む価値があります。
先に断っておきます。この記事で扱えるのは、展開の順序、そこで課された条件、そして公表されている作業時間の変化だけです。費用、ライセンス数の内訳、削減できた時間の合計、配ったあとの利用率は公表されていません。投資対効果を数字で測る話ではなく、順序と設計の話として読んでください。出典はAnthropicの導入事例とPictetの公式サイトで、確認日は2026年9月4日です。
この事例で何が公表されているのか
Pictetはスイスに本拠を置く独立系の投資パートナーシップです。公式サイトは、投資の運用を本業とし、長期の視点と独立性を掲げる会社として自らを説明しています。導入事例のほうは、この会社を221年の歴史を持つ金融機関と紹介し、運用している資産をCHF 800 billion(原文の表記のまま記します)としたうえで、口座数の多さで規模を作るのではなく、少数の非常に大きな顧客を相手にしていると書いています。
導入事例に記載されている取り組みの骨格は4つです。2026年の初めに、1,500人の技術部門へClaude Codeを行き渡らせるところから始めたこと。Anthropicのパートナーである Artefact が研修を担当したこと。現時点で約700人がClaude CodeとClaude Coworkを使えること。そして、業務データの処理をEUとスイスの中にとどめたことです。研修は25回のワークショップとして実施され、500人を超える人が受講しています。
| 公表されている項目 | 記載されている値 |
|---|---|
| 使える人の数 | 約700人(多くはエンジニア、プロダクトとビジネスの担当を含む) |
| 最初の対象 | 1,500人の技術部門 |
| 研修 | 25回のハンズオン形式のワークショップ、500人超が受講 |
| データの処理場所 | EUとスイス、専用のAPIゲートウェイの内側 |
| 会社の規模の記述 | 221年の歴史、CHF 800 billion(原文の表記) |
表にある値が、この事例で数として出ているものの全部です。ここに無い項目、たとえば1,500人の技術部門のうち何人が実際に日々使っているかは書かれていません。
起点はハッカソン。設計案ではなく動くものを作らせた
技術部門への展開は、Artefactと共催したハッカソンから始まっています。導入事例には、参加した各チームが実際のコードが後ろにある動くプロトタイプを作った、と書かれています。過去の同種のイベントでは設計コンセプトの提案までで終わっていた、という比較も添えられています。つまり社内行事の形は変えずに、成果物の要求水準だけを上げたことになります。
優勝したのはPicAccessという社内向けの道具でした。役割が変わる人や新しいチームに入る人が、自分のアプリケーションの利用権限をその場で確認できる画面です。同じ役割の同僚がどのアプリと権限を持っているか、自分の役割に対して何が足りないかを見せ、不足を埋めるためのIT部門への申請を、あらかじめ入力した状態で出します。従業員のアクセス権限は長く解けなかった課題だったと、Group Technology Strategy and Innovation を統括するSteve Blanchetさんが述べています。
入口の設計としてここが参考になります。説明会や資料配布ではなく、制作の場から始めているという点です。作らせると、そのツールで何ができて何ができないかが手に残ります。しかも最初に出てきた成果物が、外向けの華やかな企画ではなく、社内の面倒な手続きを軽くする道具だったところに現実味があります。
25回に割った半日の研修と、その埋まり方
研修はArtefactが半日のワークショップとして設計しました。対象の幅が広いことが明記されています。エージェント型のコーディングに初めて触れる人から、すでに個人的にClaude Codeを使っている技術者までが同じ講座に入る形です。これを社内の研修基盤の上で25回実施し、1回あたりおよそ20人が参加しました。合計で500人を超える人が受講しています。
注目すべきは日程の埋まり方です。日程を公開した時点で、最初の6〜8週間分がすぐに満席になったと書かれています。研修を用意したら人が集まらなかった、という逆の状況を経験した担当者は多いはずです。この事例では、ハッカソンが先にあり、そこで動くものが出たあとに研修の枠を開けています。順序が需要を作った可能性は読み取れますが、因果として証明されているわけではありません。
Artefactの Zachary Schillaci さんは、定着と使えるようにすることこそが、価値が実際に形になる道筋だと述べています。Blanchetさんの言葉はさらに直接的で、広い範囲での効果はひとりでに現れるものではなく、ツールを配ることだけが仕事ではない、能力を作り、人を連れて行くことだ、と語っています。研修の回数や受講者数は、その考え方を数として表したものだと読めます。
配る順番を決めたのは、データの置き場所
金融機関なので、当然ながら制約が先にあります。導入事例には、業務のユースケースはEU内で動かす必要があり、一部の用途はスイス国内のみに限られる、と書かれています。学習のためにデータが残ることはなく、Blanchetさんはこれを「データは私たちのところにとどまる」という趣旨の言い方で説明しています。処理は、この用途のために用意したAPIゲートウェイの内側にとどめる形です。
面白いのは、この制約が展開の順番そのものを決めている点です。最初に開発者へ配った理由として、開発者の領域はデータを置ける場所の制約がいちばん緩いからと説明されています。使いたい部門から順に配ったのでも、役職の高い順に配ったのでもありません。条件を満たしやすい領域から配って、実績を作りながら範囲を広げています。
Head of Cloud EngineeringのXavier Meyerさんは、リスク・コンプライアンス部門との関係を保つうえで、ペルソナ別・用途別に展開したことが助けになったと述べています。全社へ一度に配ると、審査は「全社での利用」という最も広い条件で行われます。区切って配れば、審査の対象もその区切りの中に収まります。社内の反対を説得で越えるのではなく、審査できる大きさに割って通しているという進め方です。
公表されている結果は「できなかったことが数時間になった」
結果として挙げられているのは4件です。いずれも作業時間の変化で、金額では示されていません。
ひとつ目はコンプライアンス部門から出ています。50件を超える社内の指針と、現行の規制基準を突き合わせるギャップ分析です。この取り組みは当初、3人の専任チームで2週間かかるものとして見積もられていました。それがClaude Codeを使って数時間で完了した、と書かれています。ふたつ目はプロトタイプです。2週間かかっていたものが2時間になり、しかも画面の裏に実際に動くコードがある状態で出てきます。
3つ目はインフラの担当チームで、アラートを集約する仕組みを数週間ではなく数時間で作っています。銀行の各所で使われている端末向けの画面も、短い期間で提供されました。4つ目が、マーケティングや情報収集の仕事に近いものです。AIの主な動きをまとめる週次のニュースレターを、毎週3時間かかっていた作業から完全な自動化へ切り替えたと記載されています。
4件に共通しているのは、もともと誰かの手が空くのを待っていた仕事だという点です。専任チームを2週間押さえられないから見送られていた分析、毎週3時間を出せる人がいるから続いていたニュースレター。人手の確保が前提になっていた作業が、確保しなくても回る形に変わった、という読み方ができます。一方で、品質をどう確かめたのか、同じ範囲を同じ基準で比べたのかは書かれていません。時間の比較だけを取り出して自社の見込みに使うのは危険です。
マーケティングの仕事に引き寄せて読む
この事例で唯一、マーケティングの実務と地続きなのが週次ニュースレターの自動化です。情報を集め、要点をまとめ、決まった形式で配る。担当者が毎週数時間を使っている作業として、多くの会社に同じものがあります。ただし公表されているのは「自動化した」という事実だけで、読者の反応や品質が保たれたかどうかは示されていません。効果を保証する材料にはならない、という前提で受け取ってください。
もうひとつ引き寄せられるのは、最初の成果物がPicAccessという社内の手続きを軽くする道具だったことです。外向けの施策から始めると、公開の判断や表現の確認が必要になり、動きが遅くなります。社内向けの小さな不便から始めれば、失敗しても影響が社内にとどまります。AIエージェントを業務に組み込む段取りとしては、Spellbookが契約書レビューでモデルを使い分けている例や、Wondr Healthが初回対応をAIに任せた際の安全設計と並べて読むと、任せる範囲の決め方の違いが見えます。
日本の実務者が参考にできる点
第一に、配る前に作る場を置くこと。説明会ではなく、動くものを作って終わる催しにすると、その日のうちに「何ができないか」まで分かります。
第二に、研修を短い単位で回数を重ねること。半日を25回という形は、業務を止めずに組めます。1回およそ20人という規模も、質問が出る大きさとして現実的です。
第三に、配る順番を制約から決めること。使いたい部門の熱意ではなく、データを置ける条件が緩い領域から始める。ペルソナ別・用途別に区切ると、審査する側も判断しやすくなります。
第四に、使い道を上から決めないこと。この事例で目立つ成果は、コンプライアンス部門の突き合わせと、社内向けニュースレターでした。どちらも情報システム部門が最初に想定する用途ではありません。
ただし、同じ順序をなぞれば同じ結果になる、とは書けません。Pictetが公表しているのは自社の進め方と4件の作業時間だけで、他のやり方と比べた数値はありません。ほかの事例は海外AI活用事例にまとめています。
公表されていないこと
確認できなかった項目を残します。導入と研修にかかった費用、ライセンスの契約数、社内での利用率、削減できた時間の合計は公表されていません。約700人という数はあっても、そのうち何人が継続して使っているかは記載がありません。
うまくいかなかった用途や、途中で取りやめた取り組みについても記載がありません。ハッカソンや各段階の実施時期、25回のワークショップを何週間かけて実施したのかも書かれていないため、この記事では順序だけを示しています。PicAccessが実際に社内で稼働しているのか、試作のままなのかも明示されていません。
出典と注記
この記事は、Anthropicが公開している導入事例「Pictet turns weeks of work into hours with Claude Code」と、Pictetの公式サイトを出典としています。数値は原文の表記のまま記載し、通貨や単位の換算はしていません。発言は導入事例に掲載されている内容の範囲で、日本語に要約して紹介しています。成果を保証する記述は含みません。確認日は2026年9月4日です。
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